化学系選考委員会委員長
化学系への申請課題について、審査の際に行っている分類分けに基づいて俯瞰してみました。化学系では大まかに「無機化学・物理化学分野」、「高分子化学・ソフトマテリアル化学・生物模倣化学(バイオミメティックケミストリー)分野」、「生体物質・医薬・生体材料等の生体との関連を意識した有機化学分野」、「光電子材料・機能材料など物性を意識した有機化学分野」、そして「基礎化学分野および領域横断的分野」に分けて、大凡申請数に比例して採択されるように選考を進めています。但し、この分類分けは固定しているものではありません。
ここでは、本年度どのような課題が申請されて採択されたのかについて簡単に紹介します。そして、審査において化学としての研究課題の質・研究計画の質とは別に重視している観点について少し述べます。その観点とは、将来化学心をもって仕事をしてくれるであろう申請者の、現時点での情熱です。申請者が、年齢とは別の尺度での「若い研究者」として、今現在の化学とは違うところに踏み出すべく素直に挑戦しているだろうかという大きな期待と羨望のようなものです。
また、これも化学の内容そのものとは別の観点となりますが、申請書の書き方や経費項目に関して気になった点も述べておきます。控えめの表現にしてありますが、非常に重要なことと認識願います。
この総評を読み、次年度以降に応募してみよう、と思っていただけると大変うれしいです。その際に参考としていただきたいこと、審査に携わっている委員がどのような情熱あるいは思い入れを持っているか、そして申請者を支援する方のどのような配慮や愛情を期待しているかを感じ取っていただきたいと思っています。
研究課題の傾向
「無機化学・物理化学分野」の研究課題としては、光関連の申請と固体化学関連の申請が目立ちました。これは昨年までと同様の傾向ですが、基礎的な光物性に別の観点を絡ませた展開の申請がいくつか見られました。光エネルギーを機械的エネルギーに変換する光アクチュエータの開発という具体的な材料イメージを持ちつつ機能発現の原理追究を期待させる課題も評価されました。また、固体化学関連の申請は、最近の固体の構造制御の進歩に伴う潮流の反映と思われます。盛んに研究されている領域では、多くの情報が得られる中でどのような深い視点を示すことができたか否かで、提案された申請が惹きつける強さに差が出ていたように思います。
「高分子化学・ソフトマテリアル化学・生物模倣化学(バイオミメティックケミストリー)分野」は、実際の材料に立脚して製造や開発の中から科学が構築されてきて、今現在いろいろな方面に拡張している領域です。化学の枠を超えた視点も求められ、これまでにはない指導的概念も生まれている新しい、変化が速くて振れ幅も大きい分野です。申請課題も採択課題も多岐に亘り、いろいろな興味で研究が進められていることがわかります。本年度は領域横断的な申請課題が増え、コロナ禍から研究環境が水平的な展開の形で回復してきたと実感できました。研究の進め方と成果の現れ方についても他の化学研究とは異なっています。純粋化学で物質変換を扱う場合の基本が、「単離された物質」から始めるのに対して、これらの研究では初めから混合系・複雑系が対象となるという大きな前提の違いがあります。また、化学の中では比較的外観の見え易い結果を直接視認できる分野とも云えます。観察される現象に成分物質のどれが関わっているかを見極めることは容易ではなく、複雑さの中からどのような本質的概念を見つけるか、見つけるというよりも気がつくか、ということが難しい分野であるとも云えます。申請の中にはこのような観点から、もっと踏み込みがほしいと思えるものがありました。それ以前に、申請者自身による独自性が不明確なもの、あるいは記載されていても所属研究室や領域の内容から容易に着想できるものが散見されたことが気になりました。
「生体物質・医薬・生体材料等の生体との関連を意識した有機化学分野」の課題も、多岐に亘るもので扱う物質の種類の観点だけから申請全体の傾向や採択課題の特徴を論ずるのは難しいところがあります。研究の進め方・方法論の観点で申請課題・採択課題を眺めると、新理論・新物質探索や物質設計・新反応・新分析手法開拓などを基盤とする研究提案が多数見られ、21世紀半ば以降の日本の科学技術先導への大きな魁が感じられました。また、新しい大きな特徴ですが、研究の進め方としてAIとの関わり方が申請書の内容にも顕在化してきました。
「光電子材料・機能材料など物性を意識した有機化学分野」も、いろいろな化合物について合成を中心とした熱心な研究提案が多く、その中でも可視光反応、マイクロフロー合成といったキーワードが目立ちました。エネルギーや資源を賢く使い、付随する廃棄物削減等の環境への負荷を低減するという基本方針を保持することは全分野の公的標準デジュアリスタンダードと考えられますが、合成有機化学系の研究では特に注意深く考え込まれています。
「基礎化学分野および領域横断的分野」では、これまであまり注目されていなかった相互作用に関する探究を試みるものが開拓的で挑戦的な研究姿勢として評価されました。分子間に働く弱い相互作用の集積による安定化が顕在化した形と云える結晶化を利用して一時的に物性を実現する試みは、分子構造変換に伴う環境負荷やエネルギーコスト発生を回避する術であり、方法論として拡大する芽を感じました。芳香族性に関して拡張した観点で捉えようとするもの、マクロな現象や性質を量子化学的に解釈し、さらに具体的な性質の合成化学的検証に繋げるものなどにも惹かれました。プロセス化学的な研究計画も散見されましたが、事例蓄積だけではなくその先の考え方を示していただきたいという印象を持ちました。
研究歴について
研究歴は専門的業務への従事期間と発表業績とで見積もることが一般的だと思います。本年度は、大学院前期課程1年次学生など若い方の申請も特に多く見られました。それに対して、助教職など既に一線で活躍している方の申請は少なく、残念に思いました。有資格のベテラン研究者にも初心に帰っての新しい挑戦の機会として申請していただくことが本助成の趣旨に叶うものと思います。
全体的傾向ですが博士課程以上の方の申請には、きれいにまとまった内容の研究計画が多かったようにも思われます。若い学生の方の申請書は、やはり博士課程学生や博士取得者の申請書に比べると、書き方、アピールの点で不足の感は否めないように思いました。しかし、それでも背伸びして外形を整えるのではなく、朴訥でも誠意を以って現在地での自分なりの思うところを伝える努力を継続してくれることを期待します。
研究業績についても、若手の研究者の業績が少ないのは当然ですし、研究経歴がある方でも新しいところに踏み出そうとしたときにはその分野の業績が乏しいのも当然です。申請者のこれまでの研究成果の発信実績については、積極性の指標として重視しましたが、判定の際には申請者の研究キャリアや研究の段階を十分に配慮するようにしています。
研究費の使用計画について
研究費の使用費目には特に制約を設けないとは云え、どのような使い方を記しているかは比重の大きな判断材料としています。あまりに旅費が多いものや、特定の機器の購入だけに偏っているもの、特に汎用機器のみのものなどは研究に向かう気持ちを汲み取るのが困難です。経費の使途が消耗品経費の充当になることも不適切と考えています。また、同一の指導教員・推薦者の申請であっても、個別の申請の研究費計上内容が同一であることは、きわめて不自然であろうとも考えています。
研究リーダーの皆さん、本申請では推薦者となる方へお伝えしたいことですが、『学会発表したければ、自分で資金を獲得すること』、『将来筆頭著者として学術雑誌に投稿する費用、オープンアクセスにする費用を計上しなさい』は本末転倒と考えています。これら研究後の成果公開については、研究責任著者として配下がアイディアを具現化する過程を指導する研究リーダーの責務の範囲と認識しています。
論文発表について
計画段階の研究の成果の論文投稿が1年弱の期間で実現できる可能性については十分に納得しているわけではありませんが、そこに合理的な理由があったとしても申請計画で論文の投稿費用に研究経費を大きく積み上げることは避けなければいけないと考えています。実験研究の実費用にできるだけ配分したいと思っています。昨今の論文発表コストの高騰を考えれば、化学界・科学界で活動する者が一丸となってこのコスト障壁の格差に対峙することが必要かと思います。AIを積極的にとりいれた研究が主流になりそうな流れが見える研究環境の中で、これも研究リーダーに求めて恐縮ですが、論文発表コストについても学生が将来働く姿を見据えた指導の工夫を望みます。
研究課題の独立性について
本研究助成の趣旨からは、「今の大きな波に飲みこまれた計画や、研究室主宰者のプロジェクトの一部・単純なライブラリー構築」は採用しにくいと考えています。若手研究者が研究テーマそのものを研究指導者等から与えられて研究を行うことは不自然とは思いません。研究テーマの具体的選定、遂行に加え申請書作成においても推薦者と協力することは当然だと考えます。安全の確保、これまでの膨大な研究者の営みの結果の上を歩く若い人への道案内は不可欠です。しかし、それを踏まえつつも申請者独自の一層の主体性を求めたいと思っています。現在行っている研究で疑問に思ったことやちょっとした発想が出てたこと、あるいは研究を遂行する上で自身が独自に工夫したことがきっとあると思います。それを膨らませたら、あるいはそちらに少し軸を移したら、そういう発想に基づく研究計画を歓迎します。そういうところから新しい幹が生えてくるのだろうと思います。申請者がどのように着想に至ったか、その経緯を丁寧に説明することは必須です。立ち止まって振り返って眺めることはきっと有益です。
研究室主宰者も自分自身を育ててくれた環境を思い出し、若手の見つけたきっかけを活用して次世代の化学を作るべく、踏み留まっていただきたい。
若手研究者に期待すること
日本の科学力が落ちていると言われる昨今ですが、若い研究者は自身の持つ芽を大切に育てる姿勢を守っていってほしいと感じます。選外の判定となった皆さんも過剰に気を落とすことはせずに、自信を持っての研究課題を育てていただきたいと思います。特に、研究経験の浅い方は、未熟であっても「この人には実施してもらいたいな」と読み手が感じ取るかもしれないというポジティブな気持ちで書き上げ申請して欲しいと思います。自分の研究したいことを伝える申請は、他者を説得し共感を得る作業で、経験の少なさは不利です。しかし、肝心なのは自己の仕事の中でどのような独自の視点を持ち得たかだと考えています。ベテランにも新人にも共通することですが結果の見通しが立つことに安住していないか振り返って眺める姿勢をしっかりと意識してください。
重ねて述べることになってしまいますが、「若手」の情熱のこもった申請を待っています。小さな独創性でもよいですし、今までされたことがないと思う研究など、「新奇な」計画・申請の化学に邂逅してみたいと思っています。きれいに整えられて、説明が粛々と進む書類ではなく、独自の研究計画です。独創ということは、奇抜さではないと思います。おそらく既存の何かと何かの組み合わせです。誰も思いつかないような凄いことに囚われると、何も言えなくなったり、飾りに拘るだけになったり、本末転倒だと思います。研究グループの内容をきれいに書いても伝わる響きは小さいと思います。指導者、推薦者の皆さん、一緒に将来の化学を作るべく、協力して「若手」の背中を押しましょう。