複合系選考委員会委員長
年を追うごとに、複合系に申請される研究分野が拡大する傾向が見られます。審査方針としては、研究分野によって採択率が偏ることがないよう配慮して審査します。
複合系の研究は、文字通り複数の研究分野が関係していますが、おのずと主体になる分野とサブの分野があります。そこで、主体になる分野によって申請を分類し、分担して審査します。以下、主体になる分野ごとの総評です。
生物分野
医学生物学(動物実験)関連課題、化石を対象とした課題、社会(ストレス)と行動に関係した動物実験課題を担当しました。動物実験を含む医学生物学課題としては、医学が主体の研究は複合系の申請の対象になりません。複合系への研究申請ではなく、医学関係での研究申請が適切に思える課題になっていました。また、化石を使った研究申請に関して、主に海外博物館での所蔵資料利用というところでの申請が多数でありました。
SDGsを意識した課題でありましたが、成果獲得や実現可能性、社会貢献に甲乙つけがたい課題が同一研究室に所属する大学院生から、毎年のように申請されています。
化学分野
1.生体物質の特徴を活かす研究に関わる申請が多く、新鮮な発見が生まれることが期待されます。
2.本会の特徴である「若手研究者に門戸を開く」方針に共感をもって挑戦する研究者が増えていることは心強く思います。ちなみに、複合系においては、申請者の約80%が20代です。
3.ただし、研究チームの細分化にはデメリットもあり、若い研究費申請者と指導教授との密なディスカッションができる環境を保持することに努めなければなりません。
4.この分野の研究には、高価な試薬・機器を用いる必要性が伴いがちです。申請される研究費の約1/3を学会発表にあてている事例が多くみえますが、影響力の大きな学会で口頭発表し、評価の高い論文誌に投稿することに努めるとよろしいかと思います。
地球科学分野
惑星科学分野ではレベルの高い申請書が目立ちました。研究の意義、研究の背景などが論理的に説明されていました。一方、野外調査などの手法の研究では何故その場所を選択したのか、その意義が十分に説明されていないものが多かったように見受けられます。自分の研究の意義を他人に分かるように説明することは重要です。また、海外の研究機関での研究を目指す野心的な研究計画では国内での準備過程と海外での研究を論理的に組合せ、研究成果が期待できます。
人間科学分野
複合領域への申請では、人の身体運動を細胞応答として位置づけて研究する申請が増えてきました。その傾向はよいのですが、いずれも『動くようにできている個体(身体)』と細胞との関係に気を配っていないのが残念です。スポーツ科学やリハビリテーション科学を専門にする研究室に所属している申請者は、運動生理学を背景に解明しようとし、工学の機械工学研究室に所属する申請者は、細胞を工学的にとらえているものの、その細胞が動物のある組織を作っている細胞や幹細胞、iPSにして個体や身体内の柔らかい環境で実際には生存していることなど、考えも及ばない設定で実験計画をたてているものが見受けられました。結果は得られ論文にもなるが、そのデータはどのように利用されるのか、問題提起してゆく必要があるでしょう。身体運動がもたらす適応の物性面の研究の遅れに比べて、神経筋の連携に関しては、電気生理学的研究方法がコンピューターの容量やAIの進展とともに解析技術が進んでおり、骨格筋の電気的活動と脳神経系の活動をリンクさせる方法が開発されています。身体の微細な動きの違いを生み出す骨格筋の遠心性収縮(過度な伸長は炎症につながるが)特性を、神経筋活動の単位であるモーターユニット(MU)が評価できる高密度表面筋電図法を開発したドイツの研究者を訪ね、方法論を学習して予備実験も行い仮説をたてた申請がありました。一昔前は、遠心性収縮により骨格筋のサルコメア構造を破壊させて、サテライトセルを活性化しようとする筋肥大実験が流行ったが、そのような運動では腱骨付着部における炎症や関節への過度な負荷をかけることで関節障害につながる危険性があることが問題視されるようになってきており、その点にフォーカスした申請もあります。また筋骨格系の柔軟性や強さには性差も存在することから、性差にも注目しての申請も歓迎します。骨格筋の大きな適応能力に比べると、関節はその構造の難しさやさらには動きの複雑さを評価する方法がまだ確立されていません。綿密な評価方法の確立のための研究申請も重要です。細胞及び細胞が細胞外に生み出すECMへの研究が遅れていることから、工学や放射線科学との共同での理学療法関係の研究は、新たなスポーツ・身体運動領域を生み出すのは歓迎です。しかし、いずれの研究も残念ながら体幹制御などの身体全体の制御に注目した研究は現れていません。重力下における身体や身体運動は、たとえ脳科学的な研究においても全体が連携して動く様に設計されているので、実験計画の前提条項として考えることができるような研究の申請を期待します。身体運動の実践と反復で様々な効果が得られるのは、多細胞動物であっても生命の単位である細胞が、刺激に応じて化学反応をより効率的に変化させる能力をもつからです。基礎科学と身体運動の科学の間には大きな溝があり、『細胞』で考える基本が教育の中に位置づけられていません。しかし今は、いくらでもネットで学習が可能です。人のWell beingを支えるQOLは、動く様に作られているものの立位を常態とすることで他の動物と一線を画すことになったヒト・人・人間の特徴を捉える必要があるが同時に、循環する代謝を適切にリンクさせることが必須です。代謝を進める有酸素能力は、基本的に酸化ストレスとリンクしているが、それは以前のように「悪いストレス」というわけでは必ずしも無く、必須な刺激として循環させることで、適応メカニズムを獲得してきた。その一端に挑戦する研究も歓迎です。本質を考え、とくに予防医科学として位置づけられるスタンスでの研究を歓迎します。生命体であるからこその適応原理を細胞の基本システムから解き明かすことでもあります。その両者をつなぐための科学や研究への挑戦を期待します。
要素還元的な科学のみが高度で精緻な科学であるとの誤認識が、科学技術領域の基盤となってしまっていることに警鐘を鳴らしたいと思います。AIの時代で物質の存在や統合的な生命体の総合科学と、人間として生まれ天寿を全うする目的を育てるための領域横断的な研究助成についても、本助成が考えてもよいのかもしれません。立位二足で動き移動することを支える生命システムと、それにより発達したであろう人の脳回路は、言葉を生み、絵画や音楽や舞踊やスポーツなどのアートを生み出しました。その言語が持つルールは国が違っても共通で、人間の行動のみならず人間間や人間とモノ・環境との相互作用についての一定の原理原則があることは、AIやChatGPTなどが生まれたことからも明らかです。しかし、実際に高齢社会を生きるのは個々の人間です。その個々の人間が生命システムを生かし、人間だからこそ可能な能力を引き出せるような科学の成果が生かされていません。それは『動くようにできている身体をもつ人間』を科学の対象から遠ざけてしまったからです。健康・スポーツ科学は、出力解析科学となっており、生命科学基盤が教育に組み込まれていません。
本助成は、若手が独自に行う研究へのサポートを原則としています。しかし若手のただの思いつきで研究がなされていた時代は過ぎて、様々な知識が蓄積しており、とくに身体運動の評価は多面的な視線が必要です。その方向での申請がありましたが、指導教員がオーガナイズする研究だといわれると本会の原理原則から外れます。申請書の書き方その他に大いなる工夫が必要でしょう。問題の設定自体をより根源的にできる研究教育指導が必要なのではないでしょうか。
看護分野
本年度の応募研究の特徴は、独創的な発想から生まれた仮説検証型の研究が多くみられたことです。この傾向は本会の特徴を表したもので、高く評価できます。しかし独創的な研究は、一方では研究計画が粗雑になってしまう傾向があります。しっかりとしたエビデンスもまた求められるため、既存文献の成果を踏まえた研究計画が重要です。
その他の分野
本年度は、世界中で問題となっている社会の中の分断、また、人類が子孫に知識や技術を伝えることが進化の上でどのような意味を持つかというような、社会構造にかかわるテーマがいくつか見られました。このような問題に、社会科学的アプローチと、複雑系のような数理的アプローチを組み合わせる手法は、今後ますます重要になっていくと思われます。しかし、様々な要素が関係した複雑な問題にうまい切り口を見つけることは容易ではなく、深い洞察力と地道な努力が必要だと思います。そのようなテーマこそ、AIが答えを見つけることは困難で、人間の能力が試される問題かもしれません。また、このようなテーマは、人類の将来を考えるうえで重要であるにも関わらず、短期的な成果が出しにくく、現在の多くの研究費助成では資金が得にくいテーマでもあります。そのようなテーマに助成できる笹川科学研究助成は貴重な存在であると思います。
複合系の申請分野は多岐に渡り、農業・林業に関する研究と文化財保護の研究のように、まったく異なる分野が申請されるので、異種研究分野間の優劣をつけることが不可能な場合があります。審査に当たっては、アイディアの面白さなどが評価の対象になるので、どの分野であっても採択の可能性があります。
複合系に申請される研究には、開発や改良に関するものが多いように見受けられます。その場合、申請者のアイディアが、開発・改良に有効であることを示すことが必要です。審査員が、開発・改良に実現性を感じないと高い評価を得ることはできません。